金融危機後、
中間所得層は生き残ることはできたのか?

『Falling Behind :
How Rising Inequality Harms the Middle Class』

(訳注:本書の原題。
 日本語で仮題をつけるとすると
「遅れをとらないように生きる中間所得層――
 どのように不平等が中間所得層を
 害してきたのか」の意)

の第一版は、2007年に出版されました。

その主要テーマは、
1970年代の初期に始まった
所得と富の格差の拡大が、
中間所得層に大きな経済的損失をもたらした、
というものでした。

今回、カリフォルニア大学出版局からの
はたらきかけにより、その後の出来事を踏まえて、
『Falling Behind』の基本的メッセージを
振り返るきっかけをいただけたことに
感謝しています。

さて、金融危機

(訳注:2008年に発生した
    リーマンショックを指す)

や、それに続く大不況によって
起こった事象を見ると、
その前年に私の著した主張には
疑問符がついてしまうでしょうか?

一言で言えば、その答えは「ノー」です。

しかし、こうした出来事が
それまでの格差の傾向を覆したことを考えれば、
否定的見解や疑問を持つのももっともなことです。


なぜ金融危機は格差を解消しなかったのか?

1970年代初期までは、あらゆる層の世帯で、
所得は約30年にわたって同じ割合――
年に3パーセント弱程度――で伸びてきました。

ところが、1970年代初期から2007年の間では、
アメリカで大幅に所得が増加した世帯の
ほぼすべてが所得分布の上位5分の1に、
なかでもトップ1パーセントに集中していました。

たとえば、アメリカの大企業のCEOの給料は、
1980年には平均的労働者の約40倍でしたが、
2000年になると500倍以上に達しています。

アメリカの稼ぎ手のトップ1パーセントは
1976年には総所得の
8・9パーセントを得ていましたが、
2007年には23・5パーセントにまで増えています。

2008年の金融危機とそれに続く大不況は、
当然ながら、ほぼすべての人に
かなりの苦難を強いました。

そして、相対的に見れば、
最も損害が大きかったのは最富裕層でした。

金融資産が激減したためです。

アメリカでは株の所有が
広く浸透しているといわれ、
確かに他の国々と比べるとその通りなのですが、
アメリカの株式保有は依然として
一部にかなり集中しています。

2007年には、トップ1パーセントが
この国の金融資産全体の42パーセント以上を
所有していました。

ダウ平均株価は、
2007年10月から2009年3月の間に
54パーセント下落しましたが、
このとき最も大きな打撃を被ったのが
最富裕層でした。

所得分布の下位5分の1に属する人々も
打撃を受けましたが、
2007年から2010年の間に税引き前所得が
30パーセント以上落ち込んだのに対して、
可処分所得(訳注:税金や社会保険料を除いた
自由に使える収入)は概して
大幅な下落はありませんでした。

これはこの時期に政府移転支出
(訳注:政府からの年金や生活保護、
補助金などのこと)が急増したためです。

このため、金融危機の直後には、
所得規模の両端の層の間の隔たりは
かなり狭まりました。

ところが、景気が回復しはじめると、
トップ層を苦しめた状況はすぐに好転し、
その一方で、最下層の人々の時間当たりの賃金は
停滞しつづけました。

2013年の春には、
ダウ平均株価指数は2007年のピークを越え、
不況が正式に終息してから丸1年で、
稼ぎ手のトップ1パーセントは所得の伸び全体の
93パーセントを手にしたのです。

もともとの傾向がすぐに戻ってきても
驚くにはあたりません。

第10章で説明しますが、
1970年から2007年にかけての
税引き前所得の格差拡大は、
技術の変化や競争の激化の結果、
あらゆる領域で最も有能な人材の経済的影響
(訳注:いわゆる一人勝ち状態が生まれたこと)
が大きくなったために生じました。

そしてこの一人勝ち状態の傾向は
継続しているため、格差はまだまだ
広がりつづける可能性が高いのです。

そうなれば、今後の経済的背景は、
『Falling Behind』の刊行を
タイムリーなものにした2007年の経済背景と
ほとんど変わらないのではないでしょうか。


ネパールの豪邸もアメリカでは廃屋同然

当時と同じように、
従来の経済モデルは依然として効用
(訳注:消費者が消費する財から得る満足度)
が絶対的な消費だけで決まると想定しています。

けれども、効用は消費が起こるコンテクスト
(訳注:物事や人が置かれている状況や関係)
にも大きく左右されることを示す
有力な証拠があります。

このコンテクストが問題になるのは、
単に人間の脳があらゆる評価判定をする
「基準枠」を必要としているからなのです。

たとえば、自分が住んでいる家が
分相応なものかどうか考えている人を例として
取り上げてみましょう。

ほとんどの場合、彼らは局所的環境
(訳注:特定の時、場所における環境)における
住宅の質と広さで判断します。

数十年前、私は平和部隊

(訳注:アメリカ政府が運営する
    発展途上国へのボランティア計画。
    日本の青年海外協力隊のようなもの)

の志願者としてネパールの農村地域に
2年駐在しました。

その間住んでいたのは、
水道も電気もない2部屋だけの小さな家でした。

それでも、暮らしていた村にある
ほとんどの家よりも広々としていて、
住み心地も良かったため、
それに不満を持つことはありませんでした。

しかし、もしニューヨーク州のイサカ

(訳注:著者在住のニューヨーク州
    中部にある都市)

で同じ家に住んでいたとしたら、
標準よりかなり下だと考えたでしょう。

子どもたちは自分の家を友だちに見られることを
恥ずかしく感じるに違いありません。

同様に、ネパールの友人や同僚が
イサカにある私の家を見たら、
常軌を逸していると感じたでしょう。

たくさんのトイレが付いた、そんなに大きな家が、
いったいどうして必要なのだろう、と。

しかし、イサカにいる友人たちの多くは、
私よりずっと大きな家に住んでいても、
そうした感慨を持つことはありません。


GDPは国民の幸福度を示さない

こうした人が置かれているコンテクストは、
主観的評価だけでなく、
自身の人生における成功さえも左右します。

たとえば、仕事の面接のときには、
見栄え良くするようにとアドバイスされます。

しかし、見栄えの良さというのは、
相対的なものに他なりません。

同じ仕事に応募している人たちに
ひけをとらないようにすれば、
あなたの利益になります。

全員が着るものにかける費用を増やすなら、
最善の策はあなたも着るものにかける費用を
増やすことです。

その場合、こと服装に関していえば、
誰にとっても職を得る可能性や優位性は
上がらないし、変わらないのです。

同じように、住宅にかける費用は、
家族の成功にも影響を及ぼします。

たとえば、ほとんどの家庭は
子どもたちを良い学校に通わせたいと考えます。

しかし、良い学校というのも
そもそも相対的な概念なのです。

それは他のほとんどの学校よりも
いい学校を指します。

ほとんどの局所的環境においては、良い学校は
より費用のかかる地域(高級住宅地)にある傾向が
高いものです。

とりわけ、アメリカのような国では、
それは仕方のない部分もあります。

というのも、地域の固定資産税で
学校予算が賄まかなわれるのが一般的だからです。

仮に学校予算が
地域の固定資産税と無関係であっても、
教室における強いピア効果

(訳注:能力の高い集団の中で生まれる、
    互いを高め合う効果)

によって、同じ関係が生まれます。

高所得の両親を持つ子どもたちは、
恵まれた教育環境の幼稚園に入るため、
その子たちが通う学校の学習環境では
学業成績が高くなる傾向にあるからです。

ところが、こうした学校に
子どもたちを通わせるためには、
相対的に高い住居を手に入れなければなりません。

たとえば、生徒1人当たりの支出が
市全域で同じパリでも、
レベルの高い学校がある8区と16区が、
最も住居費が高くなっています。

要するに絶対的所得は、
主観的な消費の満足度はもちろんのこと、
人生の重要な場面における成功や失敗のいかんを
はかる基準としては、あまりにも不完全なのです。

これは『Falling Behind』の
核となるメッセージであり、
今後も2007年のころと同じくらい
大きな意味を持ちつづけることでしょう。

その人が置かれている状況や背景や
他人との関係というコンテクストが
重要であることは明らかなのに、
コンテクストを完全に無視した評価基準である、
1人当たりのGDP(国内総生産)が、
依然として幸福度の基本的な指標として
世界中の国家で使われています。

1人当たりのGDPが
経済的な幸福度の指標として不完全だという話は、
今に始まったことではありません。

そして、最近の研究が示すように、
GDPと幸福度の相関性は多くの人が考えるよりも
はるかに説得力に欠けています。

しかし、1人当たりのGDPに注目しつづけるあまり、
確実に幸福度を上げるとわかっている
他の要素を犠牲にし、
GDPを上げる方向へと舵(かじ)を切り、
依然としてゆがんだ経済政策が進められています。

このゆがみの大きさについて、
経験に基づいた簡単な事例を使って説明し、
この序文を締めくくりたいと思います。


平均的な世帯が選択するもの

まずはっきりさせておきたいのは、
このゆがみは羨望(せんぼう)や
嫉妬(しっと)といった否定的な感情とは
何ら関係がないことです。

実際、トップ層の所得が
急増していると知ったからといって、
中間所得層の消費者が羨望や嫉妬を抱いたという
証拠はほとんどありません。

ただし、アダム・セス・ルビーン、
O・ダイクと私が
「支出の滝」と名づけたプロセスを通して、
格差の拡大は中間所得層の幸福度に
間接的に影響を及ぼしてきました。

このプロセスの第一歩は、
トップ層の支出の増加で始まります。

これは単にトップ層の
可処分所得が増えたためです。

最富裕層がより大きな邸宅を建てると、
部分的に重なる社会的集団にいる、
それよりやや所得の低い人々の需要を方向づける
基準枠が変わります。

最富裕層に近い人々も
より大きな家を建てはじめ、
それがすぐ下の層の人々の基準枠を変え、
同じ現象が所得階層の
ずっと下まで連鎖していきます。

この支出の滝は、
1970年には1570平方フィート(訳注:44坪)だった
アメリカの平均的な新築の一戸建て住宅が
2007年には2300平方フィート(訳注:65坪)以上に
なったという象徴的な事実が
最も簡潔に物語っています。

この間の平均賃金や平均世帯所得の
わずかな伸びでは、この事実を説明できません。

劇的に変化したのは、
平均的な世帯が住宅を買う際の諸事情、
コンテクストなのです。

地域の平均的な家を
借りたり買ったりできなければ、
子どもたちを平均以下の学校に
通わせなくてはなりません。

したがって、子どもたちが
遅れをとるのを良しとしない家庭は、
まわりが住宅にかける支出に
合わせるしかなかったのです。


高騰する住宅価格と労働時間

ここで、まわりに遅れをとらないためにかかる
コストをはかるための
簡単な指標について説明します。

これは既存のデータで簡単に計算でき、
住宅の平均価格とその地域の学校の質との間にある
正の関係に基づいています。

この関係から、平均的な世帯が子どもたちを
平均以下の学校に通わせるのを避けるには、
平均よりも高い支出をしなければならないことが
わかります。

(中略)

すでに述べたように、
所得分布は1970年くらいまでは
かなり安定していました。

時間当たりの平均賃金は比較的速いペースで増え、
住宅の平均価格の伸びをわずかに超えています。

他の層の所得もおおむね同じペースで増えました。

その一方で、1970年以降の
所得の伸びのほとんどはトップ層に偏り、
中間所得層の時間当たりの平均賃金は
ほんのわずかしか増えていません。

ところが、住宅の平均価格は
もっと急激に高騰しているのです。

挙げ句の果てには2010年になると、
住宅価格帯の中間の家を得るために、
平均的な稼ぎ手は1950年と比べて
毎月かなり長い時間
働かざるをえなくなったのです。

わかりやすくするために、
ここではある特定の家にかかる
1月当たりのコストを、
購入価格の1パーセントと計算しています。

所得分布が安定していた
第二次大戦の終戦直後の数十年間、
家を持つことによって生じる
平均的な負担はほとんど変わらず、

実のところ1950年
(1月当たりの労働時間は42・5時間)よりも
1970年
(1月当たりの労働時間は41・5時間)のほうが
わずかに少なくなっています。

ところが1970年以降、
負担は急激に大きくなりはじめ、
2010年になると、平均的な労働者が
家族を平均的な価格の家に住まわせるためには、
月に82・9時間――1970年のほぼ2倍――
働かなければならなくなりました。


余分にかけたお金の見返りは小さい

もちろん、支出額が
コンテクストに左右されやすいのは
住宅だけではありません。

トップ層への所得の集中も、
服や贈り物、誕生日パーティーなどの
特別な日のお祝いといった品目で、
同じような支出の滝を引き起こしました。

こうした分野においても、
支出を以前より増やさなければ、
平均的な稼ぎ手は何らかの重大な悪影響を
被こうむることになるのです。

もちろん、こうした支出すべてが
まったく無駄だったというわけではありません。

ダイヤの指輪から得られる効用は、
主に相対的な大きさや質で
決まるかもしれませんが、
砂漠にたった1人で暮らす人でも、
大きな石が光を屈折させる様を見れば、
絶対的な喜び、価値を感じるかもしれません。

しかし、ここ数年の余分な支出は、
生活の効用(満足度)を高めることには
つながりませんでした。

今日のアメリカで結婚にかかる費用の
平均は約3万ドルで、
これは1990年のおよそ2倍です。

余分にお金をかければ、
夫婦や家族がより幸せになれると信
じる人がいるのでしょうか?

多くの消費財――
たとえばある一定の大きさを超える家など――
に余分にお金をかけることで
その分のメリットを享受できるわけではないのに、
余分に使ったお金のせいで
生活の質を本当に高めてくれるようなものへの
支出がないがしろにされてしまうのです。

もし家がこれほど急激に大きくならなければ、
その分の支出が公共交通機関への投資に回り、
その結果、通勤時間が短縮されて、
ストレスも減るでしょう。

そうなれば、友人や家族と過ごせる
自由な時間も増えます。

あるいは、医療や健康、
治安・安全面への投資に回れば、
早死にするリスクを減らせるかもしれません。

例を挙げればきりがないのです。


幸福を奪う圧力の正体

無益な「地位獲得競争」が起こるのは、
ある特定の1人の消費が、
他の人にコストを強いているということに
ほとんど注意が払われないためです。

たとえば、ある求職者が面接用のスーツに
余分なお金をかけたとします。

この場合、他の人たちは
同じように余分なお金をかけるか、
さもなければ二次面接に進むことを
あきらめるしかありません。

しかし、すでに述べたように、
全員が余分なお金をスーツにかけた場合には、
職を得る可能性は誰にとっても変わらないのです。

こうした無駄は
従来の政策手段で簡単に切り詰められます。

すべての情報が明らかであれば、
ネガティブな副作用を引き起こす度合いに応じた
そうした物品への課税が、
理想的な救済措置となるでしょう。

実際には、この救済措置を実践するには、
必要な詳細情報が不足しています。

しかし第11章では、
より簡単で同じくらい効果のある方法について
説明します。

過去数十年の間、GDPが上昇すれば、
経済的幸福度も着実に増進すると
考えられてきました。

(中略)

しかし、GDPを基にした幸福度の試算には、
先に説明した支出の滝によって強いられたコストが
まったく考慮されていません。

(中略)

人間の行動をどのような経済モデルで
説明するかによって、
所得と幸福度の関係のとらえ方が変わり、
それが私たちの選ぶさまざまな政策に
影響を及ぼします。

1人当たりのGDPの最大化を重視する今の傾向は、
消費行動の決定においてコンテクストが果たす
中心的役割を完全に無視しています。

私が提案したような別の測定基準を使えば、
幸福に重くのしかかる経済的圧力に
光を当てることができるでしょう。

同時に、あらゆる人が幸せに暮らせるようになる
政策への支持を強めることにもなるのです。



幸せとお金の経済学
幸せとお金の経済学
ロバート・H・フランク (著), 金森重樹 (監修)



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