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奇跡とは、たったひとつの愛に戻っていく
完璧な法則のこと

それでは、
誰もが愛の奇跡を体験できる祈りについて、
順番にお話ししていきましょう。

そのためには、奇跡とは、
神、宇宙、創造主と呼ばれている、
たったひとつの愛に戻ること、
ここから説明したいとおもいます。

わたしはお菓子をつくることが好きなので、
たったひとつの愛を、
クッキー生地にたとえてみます。

クッキー生地は、
小麦粉とバターとお砂糖をまぜた、
生成(きなり)色の甘い匂(にお)いと味の生地。

一枚につながった、大きくて柔らかな生地です。

それをジンジャーボーイやお家、
子猫や星や木や雲の形で型抜きをして、
ばらばらになったものを
オーブンで焼いて固くなったお菓子、

それがクッキーです。

この大きな一枚の甘くて柔らかなクッキー生地を、
神、宇宙、創造主と呼ばれている、
たったひとつの愛の状態にたとえると……。

生地から型抜きしたクッキーが、
わたしたちの現実世界や人や物の姿です。

固くばらばらで、はなればなれに見える、
たくさんの人や物たち。

わたしとあなた。

よろこびの出来事と悲しみの出来事。

愛と怖れ。

一見、それらは相反する
別々のものに見えるけれども、
ただ見た目の形が違うだけの、

実は、すべてどれも同じたったひとつの愛という、
甘いクッキー生地なのです。


ですから、

「この悲しみのクッキーもよろこびのクッキーも、
 ほんとうはどちらも同じ、
 たったひとつの柔らかな愛でできている」

とわかること。


この

「すべてはたったひとつの愛である」

「だからこそ、
 すべては必ずひとつの愛へと戻っていく」

という世界の見方をしていたのが
イエス=キリストであり、
この見方を「覚醒(かくせい)」」と呼びます。


このことを、幼稚園生のわたしが、
実際に経験した具体的なケーススタディを使って
お話ししてみたいとおもいます。


きりんの絵

幼稚園の同じクラスに、ふざけてばかりで、
いつもお洟(はな)を垂らしている
Mくんという男の子がいました。


わたしは子ども心に、

「Mくんは、だらしがない子だから苦手……」

と、心の中で「いい子ではなく、だめな子」と、
ジャッジをしていました。


わたしは祈りました。


「神さま。

 明日の席替えで、
 だらしないMくんのお隣の席になるのは
 嫌です……

 でもMくんとわたしは
 お隣の席になる気もして……

 神さま、イエスさまにしていたように、
 わたしのほんとうの想いを、
 神さまは必ず奇跡に戻してくれることを
 ありがとうございます」


そして、この祈りの後。

わたしは、
ほんとうにMくんのお隣の席になりました。

けれどもその日、
普段はふざけてばかりで
できないことだらけのMくんが、
とても美しいきりんの絵を描いたのです。

隣の席になったわたしは、
誰よりも先に彼の絵が見えるので、つい、

「先生、みんな見て!
 Mくんのきりんが、とっても上手!」

気づいたら手を上げて、
立ち上がってみんなを呼んでいました。

するとMくんのまわりに、
先生もお友だちも全員集まって、

彼の絵を覗(のぞ)きこみ、
「わあっ!」と拍手喝采(かっさい)が
起こりました。

びっくりして照れてしまうMくんは、
垂らしているお洟にやっと気づいて
袖(そで)でこすろうとするのですが、

いつもは「汚い」と嫌がっていたお友だちが、
すかさず笑ってティッシュを渡して、
教室があっという間に大笑いになりました。

あれほど隣の席を嫌がって、
隣の席にならないようにと祈ったわたしが、


「神さま。

 わたしがMくんのお隣の席にならなかったら、
 こんなうれしいことを経験できませんでした。

 わたしが考えもしなかった、
 こんな贈り物をほんとうにありがとう!」


気がつくと、
心からの感謝を、神へと祈っていました。

今までだったら想像もできなかった、
みんながMくんを囲んでいる
誰一人仲間はずれのいない安心感で、
余計にほっとして、うれしくて……。


安心安全の中で、
可笑(おか)しくて可笑しくて、
たくさん笑った日。


その時にふと、仲間はずれにされていたMくんも、
仲間はずれにしていたわたしも、

一緒に苦しかった……

という気持ちを感じたのを覚えています。


みんなで共に安心して、
初めて、わたしは仲間はずれにしていた
わたしの心の怖さの苦しさが、
なんだかふわっとわかった気がしたのです。

通り過ぎて振り返った後にはじめて、
そこにあったわたしの苦しみを、
ちゃんと見ることができたような感覚……。

たったひとつの愛という奇跡を体験した後には、
いつもたくさんの気づきが、
胸の中のあたたかな灯火となって
感じられることが多かったのです。


きりんの絵の出来事はその日、
我が家への連絡帳に、
先生がこう書いてくれました。


「今日は、教師のわたしにとっても、
 子どもたちみんなにとっても、
 全員が幸せな気持ちになった、
 奇跡のような一日でした」


祈りの後にわたしに与えられた、
きりんの絵の出来事。


この体験でわかることは、

「Mくんのお隣が嫌だ」という
ネガティブな願いも、

きりんの絵も、
拍手喝采した先生も、クラスの全員も、

普段はMくんを嫌っていたのに
ティッシュを渡したお友だちも、

彼の絵を一番先に見られる
隣の席を与えられたわたしも。


それぞれ、ばらばらの想いの形をした
クッキーのわたしたちが、祈りを通ると、
すべてが同時に愛のための道具(役割)に使われ、

たったひとつの愛のよろこびを、
全員一緒に経験するのだ、

ということがわかったのです。


つまり、

怖れというネガティブでまちがった願いや
「何を祈ったらいいのかわからない」想いも、

ジャッジや否定をせず、
ありのままの状態で祈りの中で
完璧な存在に差し出すと、

等しく愛に戻っていく
「奇跡の道具」になるのです。


わたしたちは、自分のほんとうの願いを、
何もわかっていなくてもいい。


「完璧な存在に祈るのに、
 正しい祈りやほんとうの願いが
 わからないわたしは、だめだ。

 まだちゃんとできていない」


と、ねじらなくていいのです。


子どものままの、つたなさや正直さを、
何もいじらず、何も否定せずに、つたないまま。

そのまま。ただ祈る。

なぜなら、すべてがたったひとつの愛なので、
完璧な神の愛に、どんな願いや想いも、
ただ素直にそのまま差し出していくだけで、
充分なのです。

そして、ばらばらに見えるクッキーとは、
実はまだ一度も焼かれてはいなかった、
甘く柔らかな愛の生地のままだ、ということ。


「固くて、ばらばらで、
 わたしとMくんは、別々の人間。はなればなれ」

という見方が、

「実はまちがっていたんだね」

ということなのです。


ですから出来事とはすべて愛なので、
まだずっと柔らかいまま、再創造が可能なのです。

奇跡体験とはこんなふうに、
祈った自分の心が中心点となって、
自分と関わるすべての人や物たちが、
たったひとつの愛に戻っていく、

シンプルで完璧な愛の法則のことです。


Mくんとわたし。
先生や生徒。
男の子女の子。

みんな一緒。どちらも同じ。
たったひとつ。

あなたの悲しみやよろこびは、
わたしの悲しみやよろこびという、愛。

あなたは、わたし。

たったひとつの愛とは、
とても単純で、優しいひとつの姿です。



祈りの法則
わたしたちはたったひとつの愛に戻っていく

奇跡体験とは、祈りによって、
神、宇宙、創造主と呼ばれている
爐燭辰燭劼箸弔琉Ν瓩法
わたしたちの願いや想いがすべて戻っていく
完璧な法則のことです。

怖れというネガティブでまちがった願いや
「何を祈ったらいいのかわからない」想いも、
ジャッジや否定をせずに、

ありのままの状態で祈りの中で
完璧な存在に差し出すと、
等しく愛に戻っていく「奇跡の道具」になります。

なぜなら、すべてがたったひとつの愛だからです。


神さまが味方する すごいお祈り
神さまが味方するすごいお祈り
佐川奈津子 (著)


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